【編集後記】滝山城攻略

北条氏照

戦国時代、小田原城を本拠に関東一円を支配した北条氏。滝山城は元々大石氏の居城で、大石定重によって築かれ、高月城から移転。その後、北条氏照が大石氏の養子として入城。

結構急な坂道がうねうねと続く
途中にある吉田久稲荷社

滝山城

最大の特徴は加住丘陵の複雑な地形や多摩川の浸食によって形成された急峻な断崖を利用した天然の要塞である点。標高約160メートルの丘陵上に東西約900メートルにも及ぶ広さで築かれ、南面を大手、北面を搦め手とし、城の中央部からに本丸・中の丸・二の丸・千疂敷・小宮曲輪等と配置されている。

周囲から矢を打たれたらひとたまりも無い

氏照は合戦時に自ら先陣を務め、数々の武勲を挙げたといわれている。また、外交手腕も高く、戦国大名との交渉に使われたことを示す書状が全国各地に残されている。

滝山城 引橋
滝山城 本丸跡

滝山城での戦い

天文23年(1554)に北条、武田、今川による三国同盟(相甲駿同盟)が結ばれたが、桶狭間の戦い(1560)で今川が信長によって討たれ、今川氏の勢力は急速に弱体化する。

これを機に、武田信玄は同盟を一方的に破棄し、今川領の駿河へと侵攻。武田方は残る北条方とも袂を分かつように、北条領へ侵攻を進める。滝山城も北条領の拠点のひとつとして武田勢から攻撃を受け、戦場となった。

霞神社(加住?)
日露戦争戦没者を祀っている

この滝山城での合戦は、武田勢およそ2万に対し北条勢はわずか2千程と戦力差により武田勢に二の丸門まで肉迫された。しかし堅牢の滝山城を最後まで打ち崩すことはできず、見事に北条勢が滝山城を守り抜いた。

多摩川方面を一望できる

八王子城へ移転

その後、秀吉に対抗するため、氏照は新たに八王子城 を築城し、滝山城から移転。

秀吉の関東制圧の一環で、前田利家・上杉景勝軍に侵攻され八王子城は落城。この時、氏照は小田原に在城しており、八王子城での戦いに参戦することができなかった。本拠の小田原城開城後は戦いの責任者として、兄の氏政とともに切腹し、北条氏は滅亡した。

間違って反対側に出てしまい、元の場所までめちゃくちゃ歩いた。

滝山城跡

〒192-0002 東京都八王子市高月町

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