【編集後記】縄文と弥生の複合遺跡がたまらない!本町田遺跡公園

只々ラーメンを食べるのではなく、その道すがら「遺跡」などと検索してしまうようになってしまいました。多少離れていても、脳汁が出ると同時に向かっています。さらにテイクアウト的なものがあれば遺跡を眺めながら食べたりもします。これがまた、人が全然いなくて穴場だったりします。

本町田遺跡は1967年に発掘調査が行われ、およそ5,500年前の縄文時代の住居址が4軒とおよそ2,000年前の弥生時代中期の住居址が7軒発見されました。

遺跡の全面を発掘したことで、それまではあまり解明されていなかった多摩丘陵地の集落形態が明らかとなった上、異なる時代の遺跡が同じエリアに存在する「複合遺跡」であったことから、同丘に遺跡公園として整備・保守され、それぞれの時代の住居が1軒ずつ復元されました。1992年には東京都の指定史跡となっています。

開園から35年以上が経過し老朽化が目立ち始めたため、2007年度より復旧工事が行われ、5年をかけて2軒の復元住居の建て替え、園路の整備、多目的施設の建設を完了しました。

再築された住居は元々の住居址(遺構)に盛土をして復元されたため、遺跡を傷めることなく内部が見学できるようになりました。また、縄文時代前期と弥生時代中期の住居の作り方の違いを表現し、比較できるようになっています。

縄文復元住居(J-2)

竪穴住居は、地面を数十cmほど掘りさげて床面としたすまいです。柱は掘立て式で、柱上に梁や桁を組み、その周囲に垂木や棟木をかけわたして屋根の骨組みをつくり、植物(芽)の茎や葉あるいは土などで屋根を葺きます。

縄文時代の住居は、柱や梁などに木材を丸太のまま使用することが一般的で、材種は栗が多かったようです。この復元住居は二股に分かれた栗丸太を4本用い、梁や桁も栗丸太材を用いています。木材同士は植物の蔓などで結んでいます。

この遺構には柱穴が8本あり、本住居は少なくとも1回以上の建て替えが窺え、長期にわたって人々が生活していたと推察することができます。

弥生復元住居(Y-3)

弥生時代に入ると、日本に大陸から金属の道具が伝わってきました。金属器の使うことで石器よりも細かい作業が出来るようになり、原木ではなく、加工された住居の柱が登場します。

木材を加工することで、丸太を結ぶだけの縄文時代に比べてより強度を増した住居を建てることが出来るようになりました。この復元住居も柱に加工材を用いています。

本遺構は大小二つの遺構が重なっており、本住居が拡張されたことを物語っています。ただし、縄文住居(J-2)と異なり、同じ柱穴を使うなど前の住居の痕跡をうまく利用しています。

タコスと縄文

本町田遺跡公園

〒194-0032 東京都町田市本町田 4355

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